
1. 再び熊本へ、慎重に様子を見る
2回目の訪問。
玄関のチャイムを鳴らすと、お母様が迎えてくれた。
「先生、またお越しいただいてありがとうございます。でも……今日はどうなるか……。」
少し申し訳なさそうにするお母様の視線の先に、颯太くんがいた。
リビングのソファでゲーム機を手にしている。
まるで、私が来ることなんて気にもしていないかのようだった。
「こんにちは。」と声をかけると、彼はゲーム画面から目を離さないまま、「……ん。」とだけ返事をした。
私はカバンを肩にかけ直し、勉強机のある部屋へ向かった。
2. 破られることを見越した準備
今回は 「取り組みやすい問題」と「挑戦問題」の2種類のプリント を持ってきた。
1枚目は、今までやったことのある問題を中心に、負担が少なく、解ける可能性が高いもの。
2枚目は、少しレベルの高い問題。この問題まで進めるのは、彼の様子次第だ。
私は、プリントを机に置いた。
「今日は、この問題をやろう。」
彼は一瞬だけプリントを見た。
(破るかもしれない……)
前回のことを思い出し、私は少し緊張したが、彼は何も言わず、ただプリントを見つめていた。
「……やらん。」
予想通りの反応だった。
私は特に動じず、「そうか。」とだけ答えた。
すると、彼は私をじっと見た後、ため息をつきながらプリントを手に取った。
3. 1枚目の問題、緊張の瞬間
私は静かに見守った。
彼の手元を見ながら、私はドキドキしていた。
(このまま解いてくれるのか……?また途中で投げ出さないか……?)
彼はしばらく問題を睨みつけ、考え込んでいた。
それでも、何とか鉛筆を動かし始めた。
ゆっくりと、慎重に。
そして、最後の数字を書き終えた。
彼は鉛筆を机に置くと、こちらを見た。
「……これ、合っとる?」
私はペンを持ち、彼の解答を確認した。
「うん、正解!」
「……ふーん。」
彼はそっけなく答えたが、少しだけ口元が緩んでいた。
4. 挑戦問題に挑む
「無事1題解いたね!よかった!」
私はすぐに彼を褒めた。
彼はまだ無表情を装っていたが、どこか満足げだった。
私は、そっと 2枚目のプリント を横に置いた。
「これは、挑戦問題だけど……やる?」
彼はプリントを見つめた。
一瞬、考えるような表情を見せたが、やがて小さく頷いた。
「……やってみる。」
私は驚きを隠しながら、「じゃあ、頑張ってみよう!」と声をかけた。
5. わからない、の先にあるもの
彼はじっくりと考えながら、少しずつ手を動かしていった。
しかし——
「……わからん!」
苛立ったように鉛筆を机に投げた。
私は少し緊張しながら、彼の様子を観察する。
(怒ってしまうか……?もうこれ以上は無理か……?)
彼は腕を組んで、むすっとした表情でそっぽを向いた。
私は少しだけ間を取った。
すぐに何かを言うと、彼の気持ちを逆なでするかもしれない。
静かに時間を置きながら、私は声をかけるタイミングを探った。
やがて、彼の呼吸が落ち着いてきたのを感じた。
「じゃあ、一緒に解いてみる?」
彼は少しだけ、こちらを見た。
「……。」
「いいよ。怒らなくても大丈夫。今日は理解するところまでいけたら十分だから。」
「……わからんもんは、わからんし。」
「そうだね。でも、考え方を知れば、少しはわかるかもしれないよ。」
私は鉛筆を取り、紙に絵を描きながら説明を始めた。
「この分数の通分なんだけど、こういうイメージで考えてみて?」
彼は渋々ながらも、紙を覗き込んだ。
「何となくはわかるけど、わからん。」
彼は少し苛立ちながら、そう言った。
(ここで無理に続けると、逆効果になるかもしれない。)
私は、今日のところはここまでにしようと決めた。
「じゃあ、また日を置いて解説しよう。」
「……。」
彼は何も言わなかったが、否定もしなかった。
6. お母様の不安と、小さな変化
帰り際、お母様が少し不安そうに話しかけてきた。
「先生、今日もあまり勉強していないように見えましたが……。」
私は少し笑って、「でも、1問解いて、挑戦問題にも向き合いましたよ。」と答えた。
「でも、結局、最後は『わからん』って……。」
お母様はため息をついた。
「そうですね。でも、それでいいんです。」
「え?」
「今日、彼は自分で『挑戦する』と決めました。そして、途中で『わからん』と言いました。」
「……。」
「それは、今までの彼にはなかったことですよね?」
お母様は、はっとした顔をした。
「……そうですね。前までは、そもそも机に向かおうともしませんでした。」
「そうなんです。彼は今、少しずつですが変わっている最中です。 今日はわからなかったかもしれません。でも、もしかしたら、次にやるときには解けるかもしれませんよ。」
お母様は静かに頷いた。
「……先生は、そう信じてくださるんですね。」
「はい。」私は迷わず答えた。
「彼が、どんな形で成長していくのかを見守りましょう。」
📌 次回予告:第3話「少しだけ前進」
